中城城跡(なかぐすくじょうあと)【沖縄・世界遺産】へ女子旅

沖縄本島中部の北中城村(きたなかぐすくそん)・中城村(なかぐすくそん)にまたがる立地の中城城(なかぐすくじょう)は、琉球王国建国に重要な役割を果たした武将・護佐丸(ごさまる)が座喜味城(ざきみじょう)に続いて築城し、その最期を迎えた城。
現在は中城城跡(なかぐすくじょうあと)として、城壁を残すのみとなっていますが、沖縄のグスクの中ではその遺構が最も良く残され、当時の様子を知る貴重な史跡の一つであり、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の1つとして世界遺産登録されています。
今回の沖縄女子旅は、中城城跡(なかぐすくじょうあと)に実際に行ってきましたので、詳しくご紹介いたします。
「中城城跡(なかぐすくじょうあと)」とは?その成り立ちと歴史
中城城(なかぐすくじょう)が築城されたのは14世紀後半から15世紀にかけてといわれています。
もともとこの一帯を治めていた中城按司(あじ、位の高い男性に対する尊称)が築いていたお城を増築して完成させたのが、築城家としても名高い武将・護佐丸(ごさまる)です。
現在は、中城村の公式ゆるキャラともなり、こうして可愛い姿をおひろめしていますが、護佐丸は悲劇の武将でもあります。
※写真は今帰仁城跡
琉球王国が沖縄本島を統一する前は、北部・中部・南部をそれぞれ北山王・中山王・南山王と称される三山時代(さんざんじだい)という三国志のような時代がありました。
護佐丸は、三山を統一して琉球王国・尚氏(しょうし)第一王朝を建国した尚巴志(しょうはし)の家臣で、当時の一大勢力であった北山王(ほくざんおう)の居城であった今帰仁城(なきじんじょう)を落した武将の1人でもあります。
※写真は座喜味城跡
その後、護佐丸は、読谷村(よみたんそん)の座喜味城(ざきみじょう)の築城を命じられます。
※写真は勝連城跡
さらに約20年後、今度は沖縄本島の中部、現在のうるま市にある勝連城(かつれんじょう)を拠点とする按司(あじ、位の高い男性の尊称。ここでは領主の意味合い)が勢力を伸ばしはじめます。
そこで、王様である尚巴志は、勝連城のある与勝(よかつ)半島を監視することができる、中城(なかぐすく)の土地を護佐丸に与え、そこにあった城を増改築して中城城が築城されることになるのです。
その後、勝連城の城主となった阿麻和利(あまわり)と護佐丸は敵対し、1458年に「護佐丸・阿麻和利の乱」が起こります。
重心だったはずの護佐丸は、王府に謀反の疑いをかけられて、王府軍に囲まれて中城城跡で自害します。
勝者となった阿麻和利(あまわり)は、護佐丸の死後に王府を目指しますが、阿麻和利の妃であり、護佐丸の孫にあたる王女・百度踏揚(ももとふみあがり)が先に脱出して王府にその変を伝え、阿麻和利は王府軍によって滅ぼされた……と言われています。
かなり人間関係が複雑ですね。歴史ドラマみたいです。
日本ではこのころ室町時代、応仁の乱(1467年)がおこる10年ほど前のことです。
実際のところ、護佐丸に謀反の企てがあったかどうかははっきりとしていません。
琉球王国の尚氏第一王朝は、その後に第二尚氏王朝に取って替わられ、中城城から生き延びた護佐丸の息子は、長じては第二尚氏王朝の尚円王に仕えました。
護佐丸の血統は、王府の名門貴族として栄え、その墓は中城城の近く、子孫により立派な亀甲墓が築かれています。
現在の中城城は、他の城と同じく城壁などを残すのみとなっています。
そのため、城跡と呼ばれています。
その保存状態は県内の城跡の中では最も良く、石垣の上に建つと、東シナ海・太平洋まで見渡すことができる眺望もあいまって、トリップアドバイザー実施の「日本のお城ランキング2018」にてなんと6位を獲得。沖縄のお城ではトップの人気です。
中城城跡へのアクセス・入場料
中城城跡があるのは、沖縄本島中部の北中城村(きたなかぐすくそん)です。
この項では、中城城跡への車とバスでのアクセス、入場料について解説します。
中城城跡へ車でアクセスする場合
那覇空港から中城城跡までは、車では40分程度。
渋滞状況にもよりますが、有料道路である沖縄自動車道を使っても、一般道を使ってもそこまで所要時間は変わらないです。
沖縄自動車道を使う場合の最寄りのICは「北中城(きたかなぐすく)IC」となります。ICを降りてから比較的近いのでアクセスは簡単。
駐車場は50台収容で無料です。
中城城跡へバスでアクセス
2018年9月現在、中城城跡までの直行バスは運行がありません。
また、近いバス停というのが、いずれも徒歩だと30分前後かかる位置(距離だと2km前後)にあります。
参考:NAVITIME
中城城跡は高台に建つ城なので、バス+徒歩だとかなりきついかも。
最寄りバス停からはタクシー利用をおすすめします。
中城城跡の定休日・入場料・開場時間
中城城跡は基本的に年中無休ですが、台風などの天候によって臨時休業する場合などがありますので、事前に公式サイトにて確認して下さいね。
入場料は、大人400円、中学・高校生 300円、小学生以下 200円(団体はそれぞれ100円引き)となっています。入口を入ってすぐの窓口で支払ってください。
中城城跡は入場自由というわけではなく、営業時間は8:30~17:00と定まっていますので、観光ルートに組み込む場合にはご注意くださいね。
中城城跡を巡ってみよう
それでは、中城城跡を巡ってみましょう。中城城は下から上ると奥の三の郭から正門へ抜けるコースになるのですが、城内を走る無料カートで正門前まで登れるようになりました!
無料カートで中城城の正門前まで登って楽々見学!
それでは、中城城跡を巡ってみましょう。
「順路」にしたがって、そのままたどっていけばお城をぐるっと一周できるのですが、往路はかなりの上り坂。
最初は、無料で上の正門まで連れて行ってくれるカートを利用し、城跡を見物した後に、帰りは下ってくるのがおすすめです。
カートを降りた場所は、今では広々とした原っぱになっていて、海を見渡すことができます。
城跡の方に見えるのは「鍛冶屋跡」(カンジャーガマ)と呼ばれる場所です。
その名の通り鍛冶を行っていた場所なのでしょうか。城主である護佐丸が、戦に備えて武具を作っていたという説もあります。
振り向いたところには、かつての城壁を構成していた岩が並べられています。
ここには旧日本軍の塹壕が彫られていたことがあるのです。しかし、戦局が変わって日本軍が沖縄本島南部に異動したため、中城城は米軍による攻撃をほとんど受けずにその姿を大部分保つことができました。
後ろに見えている廃墟は、もう40年ほど前にこの地に中城高原ホテルというホテルを開業する予定があったのですが、諸事情によりそのまま工事が中断しているそうです。
老朽化したコンクリートは崩落の危険性が高いので、立ち入らないようにしてくださいね。
それでは、案内表示に従って正門を目指しましょう。
下から上ってくると、三の郭から入ることになりますが、カートを利用することで、正門から見学することができるようになっていますよ。
正門に至るまでの道は舗装されていませんので、中城城跡を散策する場合は、サンダルやパンプスなどではなくスニーカーがおすすめです。
ラピュタに出て来そうな感じの城壁ですね。
正門から一の郭・二の郭へ。城壁に登って中城村を見おろす絶景
正門前まで来ました。門の向こうに見えるのは西の郭です。
「史跡 中城城跡」と刻まれた石碑があります。
こちらが正門です。四角く加工された石を積み上げた「布積み」が美しい門は、他の城に見られるようなアーチ形ではなく、かつてはやぐら形であったと言われています。
正門から中へ。城壁が見事に残っているので、「遺跡に来た!」という感じが半端ないです。
順路に従って進みます。この辺りは石畳を残しつつも、手すりが整備されており、歩きやすい場所となっています。
こちらは「南の郭」と呼ばれる場所です。
首里城の方を拝む「首里遥拝所(しゅりようはいじょ)」があります。
ほかにも、琉球国のニライカナイ信仰の大元でもある神の島・久高島の方を向いた「久高遥拝所」や
「雨乞イノの御嶽」など、場内は8つの拝所(お祈りをする場所)が存在しています。
一つの城の中にそれだけの聖域があるということは、やはり神社などと一緒でパワースポットとも呼べる場所にお城が建てられているのですね。
「一の郭」に向かう門です。
アーチ形の門になっており、同じ護佐丸が築城したという座喜味城の門を彷彿とさせます。座喜味城の後に中城城が建てられたことを考えると、座喜味城もあわせて見学することで、中城城のこともより深く理解することができますよ。
さて、門の中から、一の郭を眺める光景がとてもダイナミックで、一瞬昔の世界にタイムスリップしたかのよう。
発掘・調査が続けられている一の郭。かつてここには中城城の正殿があり、政務を行っていたと考えられる場所です。
護佐丸が亡くなった後は、琉球王国が番所を置いて管理していました。明治時代以降は中城村役場があったのですが、沖縄戦で焼失してしまいます。
正殿については詳しい記録がないため、建物の構造などはまだ不明ですが、出土した遺物などをもとに調査が続けられている状態です。
江戸時代末期に日本に開国を迫ったペリーが、浦賀に行く前に琉球王国に立ち寄っており、その時に中城城も訪問したという記録もあります。
正殿跡です。こうして見ると、中城城はとても大きいお城だったのですね。
海側の城壁手前はちょっとした踊り場のようなスペースになっていて、階段から登ることができるようになっています。
上段からは中城湾が見渡せます。沖縄本島の東海岸です。
城壁も一部登れるようになっています。中城城の城壁は、人が行き来することができるくらいの幅があり、城が攻められた際はここから応戦したのではないでしょうか。
中城城は山城であったことが実感できる風景ですね~。
二の郭に向かう門が見えます。一の門と同じくアーチ門になっていて、布積みのキレイに積み重なった石積みが美しい門です。
門をくぐったところ。二の郭の門は階段を登った高い場所にあります。
城壁から見る風景は断崖絶壁。正に天然の要害ですね。
さらに奥にある「三の郭」を見ることもできます。三の郭は後で増築されたため「新城(ミーグスク)」とも呼ばれている場所です。
二の郭で目立つ「忠魂碑」と書かれた石碑。これは日露戦争で亡くなった方を祀ったものだそう。
井戸を持つ「北の郭」・ペリーも通った裏門をくぐって帰途へ
順路に従って行くと、次に出るのは「北の郭」です。
ここは階段を下って行った先に「大井戸(ウフガー)」と呼ばれる井戸があります。
沖縄の言葉で、「ウフ」は「大きい」、「ガー」は「井戸」をあらわす言葉。
私たちの間隔からすると、水源が建物の施設にあるのは当たり前ですが、当時はお城の中に井戸があるというのは画期的なシステム。
中城城には排水の仕組みもあり、お城の出入り口がふさがった場合でもある程度の期間は立てこもることができるようになっていました。
階段を戻り、北の郭を進むと、右側に階段が。
先ほど二の郭の城壁から見た「三の郭」への階段です。
三の郭は後に増築されたこともあり、他の城壁とはことなる「亀甲乱積み」という方法で石組が組まれています。
三の郭の先には馬場だった広場がありますが、三の郭からはいけないので、一度北の郭に戻ります。
ペリーが城を訪問した際に「エジプト式」と表現した裏門。
アーチ門の形式がしっかりと残され、かつての姿をしのばせます。
門をくぐると広場。
広場の向かい側から見たところです。
門を出たところは段差があってステージのようになっています。護佐丸はここから兵たちの指揮を撮ったりしたのかもしれませんね。
その先にはおなじみ、「世界遺産」の石碑が。カートを導入する前は、中城城の見学は広場から行く人が大半だったので、こちらが入口になっていました。
もちろん今でも歩いてここから行くこともできます。
あとは舗装された道を下って行くと最初の入口に出ることができます。
入口横には軽食・ドリンクのほか、お土産物も扱う売店があります。城内は飲食禁止なのでこちらで食べてくださいね。
暑い日はかき氷など嬉しいメニューも。
そうそう、中城城で忘れちゃいけないのが、駐車場横にあるシーサーたち。
県内の作家さんたちの手による個性派シーサーが並んでいます。
お気に入りのシーサーを探して、記念撮影はいかがですか?
沖縄の歴史や日本の開国にまつわる、歴史のターニング・ポイントに関わる中城城。
中城城は城壁が多く残っていることから、見どころも多いお城です。
沖縄の歴史に思いを馳せながら、巡ってみてはいかがですか?
「女子リキ」では中城城主・護佐丸に関わる以下のお城の訪問記もあります。ぜひ読んでみてくださいね!
住所:沖縄県中頭郡中城村泊1258番地
Google Map
電話:098-935-5719(中城城跡共同管理協議会)
営業時間:8:30~17:00
入場料:大人400円、中学・高校生 300円、小学生以下 200円(団体はそれぞれ100円引き)
HP:https://www.nakagusuku-jo.jp/